3.ケインズ主義

 現在、我が国が向かおうとする社会経済はハイエク型新自由主義モデルです。分かりやすく言えば、資本の論理に基づく弱肉強食の市場世界です。思い起こせば90年のバブル崩壊以降、エコノミストやジャ-ナリストは「規制緩和」だの「価格破壊」、「人事破壊」、やれ「成果主義」、「IT革命」と毎日騒いでいました。いっこうに景気回復に向かわぬ現実を前に、彼らは「守旧派(抵抗勢力)が既得権益にしがみついている」、あるいは「政官財の癒着構造(護送船団方式)が障壁となっている」といった理屈を組み立て、今度は悪者(敵)をつくり出し攻撃しました。しかし冷静になって思い出してみてください。少なくとも90年代以降は、米国の要求のもと例えば大店法の規制緩和による大型店の出店ラッシュと流通革命、価格破壊。さらには米の自由化をはじめとする農産物の自由化。いずれも消費者主権という美名のもとの政策決定でありました。(注:日本の消費者は内外価格差も含め様々な規制等で高い買い物をさせられ損をしているという米国の主張を受け入れたもの。大手流通資本も同様の論陣を張った。)その結果、社会はどうなったでしょう。日本中の中小商店や農家は、激しい市場競争に巻き込まれ没落しました。地方都市の中心市街地は空洞化し、また農村も疲弊しました。印西も例外ではありません。十数年前まであれほど活気があった木下・小林は衰退しシャッタ-通りになり、農地における耕作放棄地は10年前に比べ約200ヘクタ-ルも増加したといいます。風情があり活気溢れる街並や美しい農地の景観はまさに過去のものとなりました。これはもはや、商店主や農家の“やる気”の問題といったレベルの話ではありません。このような状況では、旧街場での投資意欲は減退し、農村の後継者育成が困難になることは当然です。いずれにしても、国策として行われた過剰な規制撤廃や消費者主権的な政策が社会に歪みをもたらしたことは事実です。私は印西市における旧中心市街地の活性化は、ニュ-タウン的な大型店がしのぎを削る市場経済優先の発想ではダメだと思います。差別化の意味でも、顔の見える暖かさや、レトロ感ある、いってみれば共同体経済の発想でまちづくりを考えなければならないと思います。具体には駅舎・駅広整備とともに、街並み景観(ファサ-ド事業)整備といった施策が有効なはずです。又、農村振興は都市近郊型の農業、すなわち顔の見える農業、地産池消を推進していくことがポイントです。消費者に対する食の安全の確保や農家所得の安定化といった意味でも、産直を含む農業公園や道の駅を整備し、新たな販路を作る事業に取り組まなければならないでしょう。いずれにしろ印西市では、“格差のないまちずくり”をすすめなければなりません。今後、既存地区への民間投資が期待できない以上、行政はインフラ整備も含めしっかりと公共投資を行っていかなければならないと思います。

 話が印西の事になりましたが本題にもどります。90年代には上記の他、金融の自由化やIT革命も含め世の中ほとんど全てが規制緩和されました。そして2001年の小泉政権の誕生です。「改革なくして回復なし」「官から民へ」というスロ-ガンを掲げ、公団の民営化、三位一体改革、そして郵政民営化をテ-マに政権運営をはかっています。

 もはや聖域はありません。外交ではイラク派兵など対米追随一本鎗で、周辺諸国との地政学論的お付き合いを一切しない小泉さんですが、内政においては竹中氏に見られるハイエク型新自由主義モデルの完成を目指します。世の中全て「市場の自由競争の中にお入りなさい」というこです。私は、何も規制緩和全てに異を唱えるつもりはありません。時代遅れとなった規制はさっさと廃止すればいいでしょうし、役人の天下りの温床となるような組織は解体するなり焼き尽くせばいいと思います。しかしながら“精査しつつ規制を緩和する”ということと、“規制なしで摩擦係数ゼロの自由な市場社会をつくる”ということは全く別物です。国力を強化するため、時代の中である程度の自由化の必要性は認めます。ただ小泉・竹中が進める過剰な自由主義はかえって社会の活力を奪うだけでなく、その存立を不安定にする可能性すら潜んでるといわざるをえないのです。わかりやすくいえば、自由競争の結果として、「10万人のホリエモンと129,900,000人の年収300万以下の大衆といった階層分化(=貧富の格差)がおきる可能性が高まりますよ」というこです。今巷で流行っている「勝ち組・負け組」といった言葉は、まさにこのような社会を指します。皆さん考えてください。日本は世界で稀に見る、ぶ厚い中間層が育った国です。その中間層が激しい競争のもと、リストラや成果主義、年功序列・終身雇用の見直しといった形で危機に瀕しているのです。一部無責任なエコノミストは、「若者も中高年も組織に縛られずベンチャ-を起ち挙げろ!」などと叫んでいます。私、ベンチャ-ventureを英和辞典で調べたところ「向こう見ず」、「やま」、「投機」、「でたらめ」といった意味がでてきました。“千三つ”の話にのって、ベンチャ-をたちあげるため組織を捨てるなどということは、まともな大人のすることではありません。

 さて、そこで登場していただくのはケインズ先生です。大学の経済学部では80年代以降ほとんど主流ではなくなってしまいましたが、実際の政治の場では小泉内閣の前までしっかりと生きていました。中学の社会科では、「公共事業による景気対策」といったことが書かれています。しかしその本質は、所得の再分配であり公平配分という欧米スタンダ-ドの社民主義的理論であります。そしてその思想に忠実であったのが歴代自民党政権でした。貿易摩擦や規制緩和など外圧に大巾な妥協をする局面はあったものの、このケインズ政策というカ-ドは決して手放しませんでした。また、55年体制下では、福祉や社会保障という形でより急進的な所得の再分配を要求する“社・共”に対し、経済成長の過程でほぼ10年後には彼らの要求を満たし、国民の支持を得ました。今考えれば、自社の対立は社民主義内部の右派(自民党)と左派(社会党)最左派(共産党)の公共事業か社会保障優先かという所得の再分配をめぐる手法の違いであったと整理できるのではないでしょうか。さて、みなさんはこのケインズ理論に最も忠実な政治家といったら誰を想像するでしょうか?私は田中角栄であり鈴木宗男であったと思います。(歴史的にみれば、田沼意次の印旛・手賀沼の干拓・新田開発はまさにケインズ政策の先取りです。印西地区の歴史を解釈するうえできわめて重要!)いずれも政治をカネにかえる利権政治家ということでマスコミからは断罪されました。しかしそんなに簡単な話だったのでしょうか?

 養老孟史の「バカの壁」にもあったとうり、マスコミの言うことを信じてそれっきりというのはいかがなものでしょうか。田中角栄の「日本列島改造論」という書物があります。そのエッセンスはありていに言えば、東京、大阪や名古屋であがったカネを地方に再分配しろという理屈です。“格差のない国づくり”をすすめるうえで、公平配分は必要だという話なのです。鈴木宗男にしろしかりです。公共事業の補助金制度と交付税制度を活用し、地方という弱者の声を最大限に汲み上げ、担保しようと努力したのがまさに彼らでした。彼らの政策はきわめてケインズに忠実であったわけです。(この辺の分析は佐藤優氏の「国家の罠」に詳述されています)

 そして小泉構造改革。国力を強化するためにはケインズ政策では限界がありますよと。そのためには、米国流の新自由主義へのパラダイムチェンジが必要だというつくりです。しかしながら、繰り返しになりますが純粋な資本主義は、19世紀の英国を見ればわかるように、相当残酷な社会です。ケインズは、そのような英国社会、或いは1917年ロシア革命、スタ-リンのソ連型計画経済、大恐慌といった世界史のうねりの中で自らの理論をまとめました。小泉改革に客観的分析を加える上で、ケインズ理論は大いに有効です。(小泉批判の基本的書物として、リチャ-ド・ク-氏の「デフレとバランスシ-ト不況の経済学」を推薦します。バブル崩壊以降の不況の長期化を、ケインズ経済学の立場から実証的な分析を加えています。)いずれにしろ、日本がこのまま米国流自由主義につきすすむか否か、問われています。私は時代遅れと言われることを承知のうえ、今こそケインズ主義の旗を高くかかげた政策立案をおこないます。

補足:印西と千葉ニュ-タウン
 今から約40年前、印西の先人は国がすすめるニュ-タウン事業をうけいれました。千数百ヘクタ-ルの土地を提供するという大開発であったわけですが、相当な決断であったと思います。ケインズ理論からすれば、ニュ-タウン開発によりもたらされるカネで市域全体のインフラ整備をおこなうという発想は、きわめて合理的でありました。
 現在、所得の公平配分を円滑に進めるためにも、ニュ-タウンの進捗は市政の最重要課題といっても過言ではありません。今後、松崎工業団地も含め、ニュ-タウンへの企業誘致に私は全力で取り組んでまいります。

●考え方の参考となった文献
 J・M・ケインズ「一般理論」
 アダム・スミス「諸国民の富」「直徳感情論」
 西部 邁「ケインズ」「ソシオ・エコノミクス」
 佐伯啓思「アダム・スミスの誤算」「ケインズの予言」
 宇野弘蔵「経済原論」「経済政策論」「資本論と社会主義」
 マルクス「資本論」
 エンゲルス「イギリスにおける労働者階級の状態」
 レ-ニン「帝国主義」
 ヒルファデイング「金融資本論」
 リチャ-ド・ク-「デフレとバランスシ-ト不況の経済学」
 田中角栄「日本列島改造論」
 養老孟史「バカの壁」
 東谷 曉「エコノミストは信用できるか」
 滝田洋一「日本経済不作為の罪」
 山家悠紀夫「構造改革という幻想」
 植草一秀「現代日本経済政策論」
 佐藤 優「国家の罠」
 三浦 展 「ファスト風土化する日本」。

↑このページのはじめに戻る

←前のページに戻る